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2006年8月30日水曜日

癒しとしての自己表現

『心の杖として鏡として』という映画を見る機会に恵まれた。
これは、精神科病院の一室で行われている造形教室の活動記録である。
「病んでいるといわれているうちに描くのは、実は千載一遇のチャンスなのだ。
芸術とは治ってはならない病なのだ」という出演者の一人のことばに、
今の日本では自己表現としての創造活動の場や機会がきわめて限られて
いることをあらためて痛感した。

思えば私はずっと、美大を受験しなかったことを後悔し、自己不全感として
引きずり続けて生きてきたように思う。ことに美術の専門教育を受けた
クリエイティブ部門の同僚たちと広告の世界で働いていた頃は、制作実務に
手を出すことのできない立場に焦燥感とコンプレックスが日々膨らむ一方
だったことを覚えている。

「自分にできること」×「市場のニーズがあること」を左脳ではじき出し、
実利的な能力を切り売りすることばかりに追われてきた私は、「自分の好きな
こと・したいこと」という最も大事なモティベーションの源泉を諦めることを、
いつの間にか当然と思い込むようになってしまっていた。

しかし、自分の内からの声を表出する手段を生活の中から失い、左脳偏重の
頭脳労働だけに携わり続けたツケは、心身に膨大な債務として貯まり続けていた。
広告代理店を辞した私は、一人静かにすごしたいとバリをめざした。いつか目に
したことのある「芸術の村ウブドゥ」というフレーズだけが、私をバリに導いた
すべてだった。

現実のバリは私を一人にしてくれることはなかったが、ガムランや舞踊、
描画など、多様な非言語的表現活動が日常の中に存在し、その基盤である
生活哲学としての宗教や神秘主義が、しごく当たり前にしっかりと根付いて
いるのはバリもジャワも同様だった。一人の人間としての自分を実感し、誰でも
自由に表現活動に参加したり、鑑賞できる環境。これが本来の生活なのだ。
表現活動が一握りの専門家だけに閉ざされたおおげさなものではなく、人間
生活の不可欠な一部として日常的に行われているインドネシアは私を虜にした。

『心の杖として鏡として』に話を戻そう。造形教室の主催者である美術家の
安彦講平さんは、「アートセラピー」や「芸術療法」といった、第三者から患者に
対する治療的な働きかけではなく、描くことによって自らを癒し、支えていく
「魂の営み」の場の創出と提供を心がけているようだ。すなわち、この活動は
場所こそ病院の中で行われているものの、治癒を目的とするというよりも、
本来生活の一部であるにもかかわらず現代の生活の中ではほとんど失われて
しまっている、内なる自分の声を聞き、それを外在化し、他者と共有するという
自己表現活動の回復であろう。

そうした場がないと人は苦しい。感情は麻痺し、自分のことばは失われ、
行き場を失った思いは鬱積し続ける。感情表出の方法はたくさん身につけて、
TPOによって使い分けられるのが理想だが、自己を確認し、表現する手段を
持てないと人間は自分を見失い、暴発する。自己表現のチャネルを取り戻す
こと。それは、社会・文化的に自我や感情表出を抑えられてきた日本の人間に
こそ切実に必要なのだ。

芸術療法とはその名の通り、主に治療手段の一環として考案され、発展して
きたものではないかと思うが、この映画の出演者の多くもそれまでは表現活動と
無縁であったという通り、健康を害した後にはじめて自己表現手段と出会い、
その恩恵を受けられるというのは本末転倒だ。そもそもそれが欠落しているから
こそ多くの人がバランスを崩すのだろう。文頭の詩を書いた出演者は、表現活動を
日常とするに至ってまさにそのことに気づき、私にも気づかせてくれた。

映画上映の後には、短時間ながらアトリエの主催者や参加者の人たちと話す
機会が設けられていたこともよかった。私は感謝の気持を込めて彼らに言った。
「こうした活動は、仕事などの社会生活と自己表現が切り離された今の日本では
誰にとっても必要なものだと思う。病院の中だけでなく、いたるところにこうした
場がほしいし、自分も参加したい。画材や画法を教えることが目的ではないの
だから、美術の専門家ではない私も、そうした場を作ったり、あるいは紹介して
行ければと思う」と。

『心の杖として鏡として』上映スケジュール

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